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「サッカーのない生活が、想像出来ないんです。」

★田代主水さん(埼玉県入間市/ 30歳・サッカー選手)

サッカーを始めて25年、三浦知良選手に憧れていたサッカー大好き少年は、同じサッカー選手になりました。立場や境遇は違えど、同じ職業に就けた喜び……もちろん、サッカーに対する情熱はカズさんにも負けません。今年の夏まで、ラオ・プレミアリーグ『Master7』に所属し、現在は来期の所属チームを模索しながら、日本でトレーニングに励んでいます。

◆サッカーとの出会い

初めてサッカーに触れたのは幼稚園の時、2つ上のお兄さんの影響で、地元のクラブチーム『高倉イレブン』の練習に着いて行ったことがきっかけでした。「今思えば、この出会いは本当に大きいです。兄が野球をやっていたら、今どうなっていたか、わかりませんから(笑)」

さらに、同期との出会いにも恵まれます。のちにJ1リーグで活躍し、現栃木SCでプレーする西澤代志也選手がチームメイトでした。当時から頭一つ抜けていたという西澤選手、シュートやパスの精度、スピードも一枚上でした。よくリフティングで競っていたという2人。回数を更新する度に、お互い電話で報告し合っていたそうです。「僕が10回出来る頃には、彼は20回出来てましたし、僕が25回出来る頃には、30回出来ているんです。いつも僕の少し先を行っていて、勝手にライバル視してました。本当に彼の存在は大きくて、当時からずっと、僕の原動力になっています」

◆初めての挫折

小学生時代、FWのレギュラーとして活躍していた田代選手でしたが、中学生になって初めて挫折を味わいます。中学の部活には入らず、地元のクラブチーム『狭山ジュニアユース』に入団した田代選手、ひと学年50人、一年から三年まで合わせると150人超……しかも足利きのプレーヤーが集まるユースの世界では、レギュラーはおろか、ベンチの22人に入れないこともありました。

「初めて突きつけられました……」FWの拘りも捨てます。使ってくれるのなら、どのポジションでも構いません。がむしゃらに練習しました。日が落ちて真っ暗になってもボールを追いかけました。近所のお寺に頼んで、灯りを点けて貰って、練習したこともありました。しかし、頑張っても使って貰えません。逆に練習をしなくても上手い選手が使われ、何とも言えない悔しさが込み上げたこともありました。当時のコーチの言葉が、今でも田代選手の胸を抉ります。「頑張っているのはわかるけど、頑張っているからといって、俺は使わない」残酷な言葉でしたが、プロになった今、この言葉のありがたみが分かります。プロは結果が全て、努力は過程に過ぎません。「だけど、コーチはズルいんです。22人のベンチメンバーには、僕を入れてくれるんですから(笑)」

◆転機

中学3年の夏、サッカーに対する考え方がガラッと変わります。それまで、ミスを恐れるあまり思い切ったプレーが出来なかったという田代選手、しかし同じチームの中心選手だった友人が、ミスになってもマイボールになればいいという、考え方だったのです。例えば、センタリングを確実に上げなければいけない場面で、相手DFに当たってしまったら、田代選手の中ではミスでした。しかし、彼の中ではもう一度立て直せば〝ミスではない〟という考えだったのです。そんな小さなこと……と、思われるかもしれませんが、この思考の違いはとても大きかったそうです。そこからの3ヶ月で、目に見えて伸びたという田代選手、なんとベンチメンバーでありながら、強豪『埼玉栄高校』のトライアウトに合格し、サッカーの特待生で高校入学を果たします。

◆海外サッカーに触れて

高校では初めて、外国人コーチの教えを受けます。とにかく技術よりメンタル、球際の集中力、言ってみれば田代選手の好むハートのサッカーを教わります。ユース時代のコーチとはまた違う考え方、しかしベンチプレイヤーであるという現実は変わりませんでした。もっと上手くなりたい、レギュラーとして活躍したい、そんな強い思いを胸に、アルゼンチン出身のコーチの伝を頼って、高校卒業後はアルゼンチンに渡ります。

向こうに行くと、コーチの言っていたことが身に染みます。技術的には、言っても日本人とさほど変わりません。しかし、球際が違います。交したと思っても後ろから足が伸びてきますし、互角のタイミングなら、弾き飛ばされます。世界レベルでのフィジカルを眼の当たりにします。強い当たりに慣れるために、毎日筋トレを課しました。さらに、細かい戦術を理解するために、言葉の勉強もします。しかし、立ちはだかったのは、言葉の壁です。学びたい気持ちとは裏腹に、理解出来ないことや自身の思いが伝えられません。それでも一時帰国を挟みながら、サッカーに漬かった2年間……最後には5部リーグではありますが、初めてプロチームからオファーを受けました。嬉しかった反面、この場所で更に頑張るエネルギーは、この時残っていませんでした。

◆更なる挫折

日本に戻っても、実績のない田代選手にオファーが舞い込むことはありません。様々なチームのトライアウトを受けるために、書類を送ります。中には書類も見ずに、そのまま戻ってくるチームもありました。そんな中、当時JFLの『アルテ高崎』が、田代選手を拾ってくれました。チームと契約したからといって、それだけで食べて行ける訳ではありません。生活のために居酒屋でアルバイトをしながら、サッカースクールで講師を務め、子供たちにサッカーも教えます。さらにチームの全体練習、土日は各地に飛び回っての試合です。そんな環境の中でもサッカーが出来ることが嬉しかったという田代選手、しかしさらなる不運が田代選手を襲います。骨折です。「チームにも溶け込み始めて、これからっていう所だったので、凹みました」治療に半年、リハビリに2年、およそ2年半不遇な時間を過ごします。

◆最高の瞬間

入団から2年半の時を経て、ようやく『アルテ高崎』で、デビューを果たす時がやって来ます。1-0で負けている場面での途中出場でした。しかも大詰めの後半44分、アディショナルタイムを入れても出場時間は5分程度です。何としても1点もぎ取って、引き分けにしたい。夢中でボールを負い回します。最高の時を向かえたのはそんな時でした。味方のセンターリングに田代選手のヘディングがドンピシャで決まります。同点ゴールをもぎ取ったのです。「最高の瞬間でした。2年半の苦労が一瞬で帳消しになったというか……この1点のための苦労なら、骨折も高くはなかったのかなと思える程でした」歓喜の輪の中心に自分がいる、最高の夜でした。ようやく光が見えたサッカー人生、しかし経営難を理由に『アルテ高崎』はこの年を最後に、消滅してしまいます。

◆最後のチャンス

その後は、転々と様々なチームでプレイすることになります。『奈良クラブ』『バンディオンセ加古川』『京都紫光』さらには、環境を変えるために海外のクラブに活躍の場を求めました。しかしどこのチームでも、必要な選手になることは出来ませんでした。

この時27歳……「もう、サッカーを諦めよう」そう思い、知り合いの紹介で六本木のスポーツバーで働きました。その店はコンセプトや場所柄も相まって、スポーツ関係者がたくさん出入りします。自身の経歴を話せば深い話になり、盛り上がることもありました。そんな時でした。「タイの3部リーグで選手を探しているから、誰か後輩いないかな?」と、相談を持ちかけられたのは。「僕の経歴に気を使って頂いて3部には田代くんは行かないよね?というニュアンスで、後輩を紹介して欲しい」と、言われたのです。沸々と沸き上がるサッカー熱、もう抑えられませんでした。「僕が行ってもいいですか?」最後の挑戦のつもりで、セレクションを受けました。

◆サッカーに魅せられて

タイに渡り『カラシンFC』の一員として認められてからは、今までの苦労が嘘のようにオファーが舞い込むようになります。2017年にはモンゴル1部のプレミアリーグ『アスレチック220FC』でもプレーしました。さらに今夏までラオスの1部リーグでプレーし、自信も付きました。

田代さんは言います……「絶対に辛いことの方が多かったけど、考えた通りのプレーや、チームを救えたプレーが出来た時に一瞬で苦労が報われる」と。まだまだ30歳、夢追い人の挑戦に、終わりはありません。

(取材・構成 内藤英一)